私と自立生活運動

あんまり公に語りたくないことだったんですが、自分の心の整理と今後の自立生活運動に関わる若手当事者へ向けて書いてみたいと思います。

私と自立生活運動

私が自立生活運動に興味を持った…厳密には自立生活という生活スタイルに興味を持ったのは自身の体力低下と実家での生活スタイルに苦を感じていた時、入院時代のつてで辿り着いた鹿児島で唯一の自立生活センターだった(以下CIL)
そこでスカイプでのIL(自立生活プログラム)と週に一回の通いでのILを一年こなし無事に月620時間の時間数を獲得し自立生活にこぎつけた。
この間も自分の交渉準備と並行して自立生活運動の歴史やピアカウンセリング、制度の成り立ち等をテキストを使い学んでいた。
この時既に自立生活運動はなんなのかボヤッと靄がかかったような状態ながら「当事者にとって必要なもの」という認識があった。
21歳で自立生活をスタートさせた時は、日々暇を持て余していたように思う。
18〜20までは健常者と同じ様に働くなかればならないと思っていたので体を酷使し、実家では時間の制約がある生活。そこから解き放たれて自由に…!とはいかなかった。
人間、暇なのは体に毒である。何かをしたい衝動にかられCILに通うようになる。
最初は通うだけで特にすることもなく、他センターの会報誌を読んだり自立生活運動のビデオを見たりして過ごしていた。何せ事務所まで片道1.5時間であるあまり時間はない。
そうこうしていると次第にものを頼まれることが増えてきた。イベントのチラシ作成、会報誌の原稿、編集。これらをそつなくこなしながら介助者の面接にも入るようになった。
自立生活を初めて一年経たないうちであったが「役割」があることにやりがいを感じていた。週に3日ほど事務所に通っていた。
・会報誌の編集作業
・介助者の面接
・旅費を出してもらってピアカン等の講座に参加
これに加えて差別解消条例の制定に向けて内部勉強会が始まった。
とにかくやる気に満ち溢れていたし、この活動が好きだから頑張れていた。勉強会では差別事例を集めるためのワークショップを開催するために講師を招いた。県内を廻るワークショップで条約や差別の定義を説明するプレゼンをするのはいつも私だった。
長距離の移動や日々の家事、指示出し等で過労気味になるも栄養剤をガブ飲みし耐える日が続いた。栄養剤の飲み過ぎで顔が黄色くなったこともある。
よくわからない日常…(明確な目標がない、言われたことをこなしたりする日々)を送りながらも常に抱いていた感情。
対価が欲しい。
この対価は「評価」という言葉でもよかったし賃金でも物品支給でもなんでもよかった。当時は生活保護を受給していたのだけれどそれに加えて月8千円程の「活動費」をもらっていた。
もらえるだけでも十分だし贅沢は言うまい…。と我慢していた。生きがいである電動車椅子サッカーの遠征費が重く生活にのしかかってきていた。
ある日電動車椅子サッカー専用の新しい機体が欲しくなり障害者用の短期職業訓練に通いたいとセンターの代表に申し入れをした。3ヶ月程度の訓練でうまくいけば30万円程訓練費が支給されるのではないかという目測があった。この思いは代表の一言で消し飛んだ。
「その間センターはどうするの!私たちはお金をもらうためにやっているのではない」涙ながらに語るその姿に自らの未熟さと至らなさに心底呆れた。それと同時に自分の役割に対してそれ以上に頑張らなければならないと感じていた。そして金銭に関することはこれ以上話すことはしないと心に誓った。
18〜20歳一般就職していた頃には、曲がりなりにも働けば給料はもらえるものと思っていたしそれが当たり前だと思っていたのだけれど、このことを機に「自分の活動は賃金を得るに値しない行為」という気持ちが芽生えた。そしてそれでも頑張り続けることをしていかないといけないのだと。
それが自立生活センターの当事者スタッフの在るべき姿で運動の継承者として守っていかねばならないことなのだ。信じて疑わなかった。
日々なんとなく過ごしていく中で、愛する人ができた。遠距離ではあったがとても真剣に交際をしていた。
交際費や電動車椅子サッカーの遠征日が生活を圧迫した。
それでも見栄を張っていた。貯金はとっくになかったが自転車操業をしながらなんとかこなしていた。
生活は苦しいながらも自立生活運動は好きだった。
JIL(全国自立生活センター協議会)がプロジェクトとしてスタートさせていた若手障害者に運動を継承していく取り組みユースパワーネットだった。
新規メンバーが一堂に会して今後の取り組みを決めていく集まりが大阪の夢宙センターで行われた。
とても大きなセンターで皆生き生きと活動していた。度肝を抜かれた。
そこで「りょーちん給料もろてるかー?」とある人に言われた。「いいえ!もらってないですよ!」と答えるとその人は「お金は大事やで、俺から代表に言うとこうか」と勢いよく言ってくださったのだけれどそれを自分で制しながら心の中で「僕にはお金をもらう価値はないし、障害者運動に金はいらないやろ」と思っていた。
しかし、この若手の会議で出会った面々の話を伺い知るに日々の活動に給料が出ている人、出ていない人がいることに気がついた。これは一体どういうことなのだろう…疑問を抱えながらもユースパワーで活動を開始していった。

ユースパワーネットで活動していく中で見えてきたこと
・センターには大小があること
・設立経緯によって活動の方向性が違うこと
・有償、無償の当事者スタッフがいること
・CILだからといって全てが人権擁護活動に取り組んでいないということ
・若手の定義が曖昧で育成方法はそのセンターの代表者に殆ど委ねられているということ。
等である。

若手の運動家を発掘していくためのプロジェクトチームといいながら根本の問題に目を向けてこれなかったのは反省点としてあるのだけれど自分自身の問題点とリンクするところが大きすぎて、なかなか提起できていなかったのだと思う。
この問題意識を持てたのは他ならぬ全国組織に加入し、活動し他センターの状況を垣間見ることができたからである。そういった意味では外の世界を見せてくれたセンターには感謝しているし、これらを解決していって今後に生かしていけばいいのである。
しかし、それを行なっていくにはまだ時が早すぎた。
日々しなければならない業務は増えていき、それでいて定型的な自立生活のスタイルを守っていかなければならないことにストレスを感じていた。もちろん「対価」は増えていかないしそればかりか責任は重くなる。
これなら我慢すればいいだけの話なのだけれど、お金がないことでさま様々な支障がでてきた。
交際費に遠征費
そして出張に出た時の交流会費用
外に出れば出るほどお金は減っていった。
地元での飲み会やそれらのことは経費がかさむため殆ど参加はできなくなっていった。
自分の交友関係は地元ではほとんど広がっていかなかった。
そんな苦しい中でも、他センターと自分のところは違うし、障害者運動は身を削ってしていくもの。という信念があった。自己陶酔していたし、頑張る自分が好きだった。そんな中でも自分の心が少しずつ歪んでいくのを感じていた。
・給料をもらいながら運動している人達は甘い
・自立生活運動は「対等」という基本かつ最も大切なことがあるのに、運営側だけ優位性を持つのはダメなこと。

この2つの思いが胸を駆け巡っていた。頭を支配して、次第に発言にも出るようになっていた。
「あんな奴らに俺は負けない」気を抜くと口をついてしまうし、実際そう思っていたんだと思う。特にセンターへ就職という形で入る当事者や入ってすぐに給料をもらっているという話を聞くと、僕の心はどんどん荒んでいったように思う。劣等感を抱かないように心の中で反発し、給料なんてもらっていない自分の方が偉い!そう思っていた。
そう思わないとやっていられなかったのだけれど、そう思う自分が嫌で嫌でたまらなかった。苦しかったのだけれどそんなことを言い出すとまた涙されるのかと思うと言い出せなかった。
そんな中、絶対的なリーダーだった代表が他界した。突然の出来事だった。悲しかったし悔しかったし訳がわからなかった。
亡くなる少し前に話したことがあった。
「あんたに代表をしてもらいたい。でもあんたは優しくないところがあるからそこを変えていってもらいたい、自分のことより人のこと。健常者に頑張ってもらうためには先ず障害者が頑張らないといけないよ」
要約するとこのようなことを言われた。
「若くて体力があること」これも代表になるための1つの指標だったみたいだけれど、僕は「あんたはよく頑張っている」その一言が欲しかった。
それだけで良かったのかもしれないし、そのために頑張っていたのかもしれない。
思ってくれてはいたのだと思う。そう思いたい。
自己犠牲の鏡のような人だったし、鉄人だった。
休むことを知らずに誰よりも当事者のことを思い誰よりも介助者のことを大切にし、誰よりも優しい人だった。
だからこそ、悲しむ顔を見たくなかったし、ためになりたかった。
でもそれを成し遂げていくにはあまりに僕は若かったし、何にも教えてもらっていなかったように思う。
代表になってからは頭痛がひどかった。今になって思えば過度なストレスが原因だったんじゃないかと思う。スタッフは少なからず前代表の影を僕に求めてくるし、それをこなしていかないといけないのは確かである。
障害者運動とは簡単なものでもないし、それは本来「仕事」として取り組むことは考え方としては違うのかもしれない。しかしそこに携わる人それぞれにも、その人の人生があるのは確かなことである。
ここでは運動の必要性を語るにはあまりに前段がお粗末なものなので避けようと思う。
時代は常に動いていて戦略的にしたたかに動いていかないといけないこと。そして社会的に排除されてきて自らの力を奪われてきた当事者に対しては、経験がある当事者がしっかりと寄り添いエンパワメント支援をしていかなければならないということ。
そこに携わる人が力を持つこと(これは資金を得ることと同義ではないです。主に社会的にネットワークを強く持つということ)をしていかなければならない。
そうしないと運動は衰退の一途を辿ると考えています。
僕自身は、自分の人生を支配されてきたのではないかなと思います(たぶんに語弊があるとは思いますが…)
力を持つ人が、新しい人や若手の意見を一蹴し考え方を押し付ける。また対価をあまり与えないことにより選択肢が減る。
実際に20代前半から給料がそれなりにもらえていたりしたら、今こうして殆ど辛いことしかない代表という役割をしているでしょうか。そればかりは自分でもよくわかりませんが、選択肢が増えていたことは確かです。自分のことだけを考えていたかもしれません。
気合いと根性だけは座りましたが、決して健全なやり方ではなかったと身を以て感じています。
今も変わりませんが、自分の活動量をこなしていく上で月10〜15万の間で生活をしていくにはかなり無理がありました。
ここまで書くとお金が欲しいだけ…のように感じとられるかもしれませんがそうではありません。
自分の力を信じさせて欲しかったし、選択肢を広げさせて欲しかった。
付け加えると、地方の小さなセンターで生活するある程度重度の障害者は自らの行動が介助者の生活にも直結してしまう難しさがあるということです。だからこそ、僕をそこに置いておく必要もあったのではないでしょうか。実際常にそのようなことを言われていましたし、確かなことです。介助者を守る責任が雇用主として障害当事者にはあります。
このようなことは理解していますが、自立生活を守り続けていくためにはある意味の弊害…なのかなとも感じています。
以上がほぼ愚痴、、みたいになってしまいましたが、今後の自立生活運動の継承を考えていく上では肝になってくることかなと考えます。
少なくとも今後自分のセンターではこのように追い詰められる環境は作りたくないし変えていきます。
相互が助け合ってより良い人生を歩めるようにし、手を取り合って社会に立ち向かっていかなければ、この差別がはびこる社会は変えていけないし、センターの中で「障害者だけが我慢する状態」といのは脱していかないといけないし、これは裏を返せば「自分たちのしてきている活動に自信がなかった」のではないかと思うのです。
僕らが取り組んでいる活動は、日々誰かの障害者のためになっているし自分たちにしかできない活動です。
最近こんなことを聞き心に響きました。そのためには緩くダラダラとしているだけではダメで、しっかりと業務として知識と責任を持ち取り組んでいかねばなりません。
時間はかかりましたが、自らの経験を持ってこのことに気づけたのは大きな財産です。
しかしそれを変えていくのは簡単なことではないです。
控え目…を演じている人間にはそれ相応の期待しかされず、批判も少ないからです。そこを脱却していくには覚悟がいります。
でもこんな辛い思いをしなければならないという状況では決して後継者など育つわけがありません。
これからこの業界に興味を持ってくれる人たちにはしっかりと自分の将来を見据えられるような希望を持ってもらいたい。
仲間のためが、イコール自分のためにもなるんだ
毎日の活動が社会を保つ、そして変えていくための一歩なのだと、自信を持ってもらうために考えながら。
奢りではなく自信を持ってもらう。

僕はすっかり自信を奪われてしまいましたが、まずはそこを取り戻す作業に取り組んでいきます。
元々、有り余る自信家だったのでそれを減らすための修行だったのかと思えば納得がいくようないかないような…苦笑。
それでも
自己犠牲は美しいこと
無理して頑張り続けること
は良くないことであると断言できます。
その人の性格を歪ませることに加えて、なぜ私がしているのについてこないんだ?というように強制的な思考になってきます。
言葉足らずで申し訳ないですが、読む人が読めばご理解いただける内容だったかと思います。
長々とした文章読んでいただきありがとうございました。
書きなぐった…形になってしまいましたが、これが僕の歩んできた、その時に感じてきた一端です。

これからも前向きに
第1は地域で必死で生きる障害当事者のため。
その介助者を支える大切な介助者のため。
センターで社会を変えるために毎日頑張る当事者スタッフのため。
全国の同士のため。
そして少しは自分のために。

僕は自立生活運動が大好きなんです。
これ以上、この運動を嫌いにならなくてよかった。

良太の世界

川崎良太_official Web site 脊髄性筋萎縮症な僕と家族の物語り。 障害があっても地域で幸せに暮らしていく。

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